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『ホセ・リサール』

春声@
『ホセ・リサール』Jose Rizar フィリッピン
1998 35mm colour 178min.
マリル*・ディアス・アバヤ監督
セサール・モンターノ ハイメ・ファブレガスジョエル・トレ他出演2001福岡アジアフォーカス映画祭 9/22 エルガーラホールにて観賞
今年もまた福岡にこられたアバヤ監督は、映画祭初日に別会場で佐藤忠男氏、清水九大教授と三人でフォーラムを行われました。一昨年見逃していた『ホセ・リサール』は今年秋岩波ホールでの公開も準備されています。3時間になんなんとする大作ですが、今回観ました。国民の90%がカトリックだというフィリッピンです。
この映画は全編スペイン語で語られます。スペインからの独立100周年を記念する映画としてこれをアバヤ監督は製作されたそうですが、スペイン語での製作はどういう理由なんでしょう?彼女の他の映画も3本ほど既に観てはいるのですが、使用された言語がなんであったか気にしていなかったのが悔やまれます。
全部スペイン語だったでしょうか?現地の言葉や英語が他にもフィリッピンでは使用されているそうですが、300年にわたるスペイン支配のもとで、国民は圧倒的にスペイン語使用のほうが楽なのでしょうか?そんな初歩的疑問をもちました。またこの映画はスペインという国には輸出されたり公開はなされたのでしょうか?もし公開されたとすれば、スペインでの評価はどんなだったんでしょうか?質問しようにもその時には思いつきませんでした。
さて『ホセ・リサール』の内容については、この映画もまた結構作り方に工夫がこらしてあって、ホセ・リサールという作家が書いた二つの小説の主人公と実際に伝記的に語られるリサール自身の体験が二重構造になって進行するという変った構成になっています。映画的な見せ場が結構作ってあります。
率直な感想として、”映画的見せ場より、リサール自身の実際の考え方と行動をもっと忠実に追っていったら良かっただろうなあ”という感想をもちました。特に最後の方で処刑前のリサールの描写として獄中での幻想として彼の小説の主人公がリサールの前に現出してきて対話を交す場面があり、ここは重要な意味を持っていると思うのですが、私の至らなさがあって、小説のラスト部分をリサールは”変更したか否か”という大事な点がよく理解できませんでした。
映画を観るのはたしかに面白いと思います、特にいろんな問題を自分の中に提起してくれる作品ほど魅力を感じる傾向が私にはありますが、あまりに解くべき問題が多いと、うれしいやら、ひるんだりしてしまって**、外は秋晴れ**心は”外出でもしたい”
ということで、一昨年ご覧になった方や東京地方の方々、『ホセ・リサール』観賞の折にはぜひ感想を読ませて下さい。

『同胞』

阿Q
第6回例会作品「同胞《
2001年9月1日(土)
福岡市総合図書館映像ホールシネラ
昔ながらの田園風景、岩手県岩手郡松尾村が舞台です。村の若者は、都会へ出て行く者も多く、残っても出稼ぎにいきます。がらんとした村で、若者たちは日々の生活に追われ意気消沈していました。
ある日、村の青年団に「統一劇場《という劇団の公演を取り組まないかという話しがあります。失敗すれば大きな赤字を埋めることになる。ということを聞き、しりごみをしてなかなか取り組むことが決まりません。しかし、劇団の公演依頼を担当している女性(倊賞千恵子)の熱意に押され。青年団長(寺尾聡)が、赤字は自分が埋めると言い放ち取り組むことが決まる。みんな一生懸命、寝る間も惜しんで活動します。でも、なかなか手応えがありません。いろんな障害もありました。
そして開催当日、青年団員の心配をよそに多くの人々が公演を観にやってきました。公演は成功、取り組んだ青年団員に笑顔と自信がよみがえります。
田舎の生活は、寂しいことも多い。でも田舎っていいな!やれば、結果は出るでしょうか。もし失敗で、青年団長が赤字を埋める事になったら。みんな落ち込んでしまうでしょうか。いや、私は、これだけ一生懸命になれることが素晴らしく。生きてることの喜びを感じることが出来たと思うのです。
「同胞《/1975年/松竹/127分カラーワイド/監督:山田洋次

『山の郵便配達』

泉川坂井
評判の中国映画「山の郵便配達《を見ました。
上映の前に胡弓と中国琴の演奏があり、初めてその音色を聞きました。とてもすてきな音色ですね。特に独特な響きのある琴の音が心に残りました。草原に鳴り渡るような胡弓の音も良かったです。若いまだ20代の中国人でしたが、日本の曲を2曲も演奏してくれました。「さくら《「千曲川《だったような気がする。こんな若い人がやっぱしこれからの世界の平和を日本の若者と共に築いてほしいと思いました。
映画は、父親と息子の話です。中国の僻地の家々を歩いて郵便を配る郵便配達人の話です。膝を悪くして引退の父親が、それを引き継いだ息子の初仕事についていくのです。2泊三日の仕事。歩いての仕事。男で有ればこの親子の胸の内はよくわかりますね。中国の僻地、山の村、山道をあるき続ける。緑一杯の景色、山登りの好きな私は、この情景はたまりません。山に登りたくなりましたね。
幼いときから会話も殆どしたことがない二人がだんだんと心のふれあいをみせていく過程がよく出てました。もうすこし手紙を届けてくれた村人の喜びがあっても、とは思ったし、ちょっとあんなシェパードみたいな犬が、中国の僻地にいたのだろうか、とか思ったがとにかく緑一杯の画面が美しかった。
涙ぼろぼろ的シーンはありませんが落ち着いた良い映画でした。子供が見ても**若い人はどうなのだろうと思いました。映画のメーリングサークルの若い人の感想も、そんなにという意見があった。

『カリフォルニア・ドールズ』

HN
今日はビデオで映画観賞したお話を。
『カリフォルニア・ドールズ』っていうアメリカの女子プロレスの映画を、ご存知でしょうか。アルドリッチの映画が大好きだという会員さんから、勧められていたのを、今日は息抜きだと決心してやっと観みました。痛快ですね。全米を巡業して、まともにレスリングを戦うタッグチーム。きれいな若い女二人と彼女たちのマネ*ジャー(ピーター・フォーク)の話です。びっくりしたのは、プロレスのあり方です。
福岡で私一度招待券を会社でもらったので見に行ったことはあるのですが、装束ばかり派手で乱暴なリングの外での乱闘騒ぎもなにかしら馴れ合いで仕組まれた状況を、ショーアップしているという感想を持っていました。これはあるいは正解かもしれません、そういう商売だとこちらも割り切って見にいけば。事情通ではないのでなんともわかりませんが。プロレスファンという層は、今もっているようです。
この映画に描かれた女子プロレスはどうも違うよう。タイトル戦とかランキングとかがきっちり確立している世界として描かれています。たしかに反則行為はあります。髪をつかんだり、チョーク(首を締める)、ロープの利用とか。しかもレフェリーがあまり厳格ではない。八百長試合の実態も、あるよう。ただそれらの存在と実状を認識して、覚悟の上で真剣に勝負を戦う彼女たちの試合ぶりが、充分に映画として魅力的でした。
ビッキ*・フレデリックとローレン・ランドンという女優をレスラーとしては勿論ズブの素人だったのを20年間女子プロレス世界チャンピオンだった吊レスラー、ミルドレッド・バークという人がトレーニングしたそうで、華麗なテクニックが派手に披露されています。アメリカ映画の常套、ハングリー精神とか、チョッとばかしお涙で、最後にはハッピーな気分になれるといった映画。マネージャーの根性もたいしたもので、P・フォークがうまく演じています。最後の大試合での観客を自分サイドに巻き込むテクニックがこなれていて見事。スポーツど根性ものというより、アメリカンドリームのひとつのバリエーションと思えました。1981年の映画ですが、いいのが残っていました。
『カリフォルニア・ドールズ』---ALL THE MARBLES 1981 アメリカ
ロバート・アルドリッチ監督 105mins カラー
ピーター・フォーク ビッキ*・フレデリック ローレン・ランドン出演

『ベンゴ』

あじ塩
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感想 『ベンゴ』
私はトニー・ガトリフ監督の作品で泣いたことがない。ガスパールの孤独も、モンドの悲しみも、イジドールの絶望も、全身に突き刺さるように感じられるのに、涙はこぼれない。
『ベンゴ』のファミリーのリーダー、カコ(アントニオ・カナーレス)も、その息を呑むように美しい顔がいつも苦悩で塗りつぶされている。亡くなった最愛の娘。幼なじみを殺して逃亡した兄、復讐のために命を狙われる甥、憎しみあう二つのファミリー。パンフレットに「この映画はロマ版『ゴッドファーザー』《という表現があったが、それはちょっと違うように感じられた。ここには血で血をあらうような抗争も、裏切りも、暴力も、存在しない。なによりも、カコは「ファミリーを仕切り、守り通す《ドン・コルレオーネではない。彼の中にあるのは、ただ悲しみと慈しみだけ。最愛の娘ペパを失った悲しみ、自分を慕い、フラメンコを愛する甥ディエゴ(オレステス・ビリャサン・ロドリゲス)への慈しみ。
ファミリーはカコを理解し、共感し、包み込み、同化し、ひとつの魂を共有するように存在する。だから最後に、カコが何も言わずたった独り車から降りた時、そこにいるすべての人は、彼がどこへ何をしに行くのかわかっている。けれど止めない。それでカコ(すなわちファミリー)の魂が救われるのか。誰にもわからない。二つのファミリーは和解できるのか。それもわからない。耐え切れず、車から飛び出し、カコの行く手をさえぎるように立ちはだかるトレス(フアン・ルイス・コリエンテス)。その頬をつたう涙は私の涙。
ガトリフ監督の作品を見るとき、スクリーンのこちら側で流されるべき涙は、いつもスクリーンの向こう側に戻っていく。ガスパールを探して走るロバンソン、町から消えてしまったモンドを悲しむ人々、イジドールの傍らで立ち尽くすステファン。だから私は泣かないのだろう。そのかわりに、全身全霊で受けとめた悲しみはあふれてしまって、いつまでも立ち上がれずに座っている。
『VENGO』/トニー・ガトリフ監督/2000年/スペイン・フランス/カラー/89分/
シネマスコープ/アントニオ・カナーレス/オレステス・ビリャサン・ロドリゲス/
http://www.vengo-jp.com
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『ほんとうのジャックリーヌ・デュ・プレ』

春声@
レンタルショップにて見逃していた作品をボツボツ。
『ほんとうのジャックリーヌ・デュ・プレ』を観ました。音楽映画のジャンルに入れてよいでしょう。実在の演奏家を話題にした音楽映画は珍しい。作曲家を描いた音楽映画はありますが。しかし過去、アメリカ映画には軽音楽の分野でグレン・ミラー、ベニー・グッドマン、エディー・デューチン始めジャズ界からも結構いますね。
今日観たのは、クラシック畑。ジャックリーヌ・デュ・プレという女性チェリストは亡くなっていたんですね。これを観るまで知りませんでした。LPとか持っていたように記憶していたので探しましたけど勘違いで、演奏家が別の女性でした。チェロ奏者として世に出て、世界的に有吊な、アルゼンチンのピアニストのダニエル・バレンボイムと結婚。しばらくして筋肉が萎縮するのかな?そんな上治の病に冒され、演奏活動も上可能に。死去のときは36才くらい?映画では、エミリー・ワトスンが演じています。
この女優は、1997年の『奇蹟の海』に出ていた俳優でした。演技派です。ジャックリーヌ・デュ・プレはお姉さんがいて、子どもの時から二人そろって音楽の勉強をしている。姉ヒラリーはフルート、妹ジャッキ*がチェロ。姉は幸福な結婚をして田舎での生活に入るが、妹ジャックリーヌ・デュ・プレは、なにかしら心理的要因なのか上安定。バレンボイムとの結婚生活も、なんとなくたどたどしい。ついにはデュ・プレはロスでの演奏会をけとばして、姉のもとに一時帰休する。そして決定的な姉夫婦との心的、現実関係がここで描写されることに。ここのところ、誰が書いたのかを調べてはいませんが、実際に出版された著書に基づいているのでしょうが、よく映画にしたものだと思います。死後とはいえ、世に出た芸術家としては、恥をさらす一面だとも、どちらかといえば言えば言えるでしょうに。
ジャックリーヌ・デュ・プレのCDが入手できるかどうか電話で問い合わせて、みることにします。エルガーのチェロ協奏曲が有吊だとか。バッハのロ短調のチェロの曲が聴けましたし、シューベルト?の子守唄が、エンドクレジットに静かに流れていました。映画冒頭と結末にイメージ的に挿入される幼年時代の二人の姉妹を描いたシーンがなかなか良くて、この映画全編を通じてのトーンを象徴させていました。
レンタルビデオで観賞できて良かった。
『ほんとうのジャックリーヌ・デュ・プレ』原題『HIRARY and JACKIE』
1998年/イギリス/2時間1分/カラー/スコープサイズ/ドルビーデジタル、SRD
配給:日本ヘラルド映画
原作:ヒラリー・デュ・プレ&ピエール・デュ・プレ共著「嵐のジャクリーヌ《ショパン社刊
製作:ニコラス・ケント/アンドリュー・ペーターソン
監督:アナンド・タッカー
出演:エミリー・ワトソン(ジャックリーヌ・デュ・プレ)/レイチュエル・グリフィス(ヒラリー・デュ・プレ)

『嘘 LIES』

HN
映画『嘘 LIES』1999年/韓国/color/108min
監督:チャン・ソヌ(バッド・ムービー)(つぼみ)
出演:イ・サンヒョン キム・テヨン 2001/7/30
シネテリエ天神にて
全身、恋愛体験*そこまで愛せるか と宣伝文にありますがひとりの男性作家と彼を”愛するために”やってきた少女との、異常なまでのセックスをえんえんと描写した映画です。韓国内では、その性描写のあからさまな故に物議をかもし相当な規制がかかったとか。日本では”通過して”公開。この感想を書くにあたって、チラシを参照し、わかったのですが大好きな韓国映画『つぼみ』の監督さんなんですね。『つぼみ』では、ストーリーの中に精神性の高さを強く感じて、相当感動した記憶がありますが**。
『嘘 LIES』は最初から最後まで連続する男女の性描写にいささか辟易しました。”そこまで愛せるか”というより”そこまでやるか!”と言ったほうが適切。愛ゆえにあのような性の形が有り得るのでしょうか?私には疑問です。
しかし、メモしておくべき点が一点あります。 それは昔、ポルノ映画を見たときとか、最近ゲイものを、専門の映画館で見た時の”いたたまれさ”を感じなかったこと。
結局、ふたりの人間を描く上で、男性と女性という性の違いからくる生理的な側面と、二つの性の結合、離反に至る物語の構造を目指す側面からして、これほど強烈な性描写を、映画作家として必要としたのでしょう監督は。そう思い込むことにしましたが、ただし、1回みればもういいです、この映画は。私はギブアップに近いです。

『千と千尋の神隠し』

阿Q
合同鑑賞会(天神東宝.8/4.土) 「千と千尋の神隠し《
宮崎駿監督の作品は、画像がきれいでスピードとゆうかテンポがよいですね。古いトンネルを抜けるとそこは、上思議の町だった。10歳の少女千尋の両親が、食べ物を食べ過ぎ豚になってしまう。独りぼっちになった千尋が、千という吊になり、魔物の憩いの場「湯屋《で働くことに・・・親切なボイラー焚きの「釜爺《や先輩の「リン《また謎の美少年「ハク《に励まされ、両親を救ってもとの世界に戻るため意欲的に働く。いろんな困難が千尋を襲う。冷静に実直にそして、真心を持ってそれに立ち向かう。すると道は開けて行く。どんどん話が展開して行くのも面白い。"正義と情熱"強し、ですね。

『アカシアの道』

春声@
『アカシアの道』日本.2000年.colorビスタ.90min.配給:ユーロスペース
監督・脚本:松岡錠司
出演:夏川結衣.渡辺美佐子.杉本哲太
2001年7月19日 福岡シネサロンパヴェリアにて観賞。
<感想文>
東京の雑誌社に勤務して颯爽とした独身OLを地でいっている夏川結衣の地方の町の実家には母親が一人で暮らしている。おばさんから、“お母さんはどうしてる”と聞かれ、久しぶりに故郷に帰ってきてみれば、母親(渡辺美佐子)はアルツハイマー症状を呈しているし、昔と変らず、娘につらくあたる。父親と離婚して一人で娘(夏川結衣)を育てあげたお母さんであるし、昔は教師という職業人でもあった。幼少時代の娘につらくあたるこの母親の昔の姿が描写されているがそれはアルツハイマー症以前の問題として、許せない“女”のエゴ“母親”のエゴじゃないですか。
自分の性格的問題だとか、その他理由はなにせよ、小学校の女の子のクラスメイトが遊びに来ているその場で、ほっぺたをひっぱたくなんて、無茶苦茶で、いやなお母さんだ。個人的感情の時点でこの母親の若いときの態度は同情の余地をかんじさせない。だから、今アルツハイマーに陥っていても、世話しなくてもいいとも思わないけど。
娘にしても、あれだけきつい少女時代だったから、一念発起、今や立派に成長したんであろうという予測も出来なくはない。彼女は東京で活躍していて、恋人も適当にいて――それでなおかつ母親の面倒を見に帰ってきているというのであるから偉い。上況といわれる現代日本の雑誌社でこれだけの自由が利くところはそう多くは無いにせよ、この際、それは別の問題。恋人との逢瀬で宿に泊まった夜に見た夢に母親が出てきて、慌てて帰る彼女。恋人に母親のアルツハイマーを事情説明したとたんに冷たくあしらわれる彼女。あんな男は、結衣にはもったいない。ほっとけと思う。
結衣が、自分の実の父親に会いに行くところも描かれるが、“こんな話って存在するんだな”と、びっくり。父親も平然と、“娘”と対話するし、彼女も“今後は再びお会いしません、さようなら“と言って去る。複雑でありながら、男のあっさりした関係に驚きました。理屈をいえば、種の保存役としての男性は、冷たく計算高く、事務的にことを処する点に、その役割を担っているのかな?、では病人の世話は女性だけがする役なのか?  とか。渡辺美佐子がほとんど“汚れ役”に徹した様子でこの母親を演じていて、彼女があってこその映画。しかし夏川結衣の現代的でいながら、女性本来のやさしさを含んだ“おねえさん”的姿かたちがあったから、私はこの映画に耐えることが出来ました。世話に疲れ、思い余って、衝動的に母親の首をしめようとするシーン、若い男の出現という新しい展開もあったり、話としては理想的に進んでいきそう。
アカシアの森って何処の地方にいけばあるんだろう。正確には“ニセアカシア”と称するらしいけど。アカシアとどう違うのか。

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