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『生まれてはみたけれど』

春声@
『生まれてはみたけれど』1932年松竹 35ミリ モノクロ サイレント 90mins
監督:小津安二郎 脚本:伏見晁
出演:斎藤達雄 吉川満子 菅原秀雄 突貫小僧 坂本武
福岡市総合図書館映像ホール・シネラ 第6回サイレント映画上映(2002/3/24)
(感想)
小津安二郎監督の戦前の傑作『生まれてはみたけれど』1932年を なんとなんと”弁士・楽団付き上映”という豪華な企画で観賞してきました。
この映画の真骨頂は最後30分だと思います。 わんぱく小僧の子ども2人と、しがないサラリーマンのお父さんが、お母さんを 交え大人の世界についてまわるきびしい問題をしみじみとした口調で”ともに 考えていこう”とする姿勢が、ていねいに描かれていると思います。 小市民映画がなんの悪いことがありましょう。中流意識もとりたてて反駁すること でもないと思っています。
そこには限界もたしかにありましょうが。少なくとも善意だし、平和だ。 そのことに対して、反論されたら、もう私には難ずかしくって歯がたたない。 ”あの子のお父さんとうちのお父さんがどっちが偉いのか”という設問を徹底的に 追及?する子どもたち、現実社会での人間の”序列”を否応無くつきつけられる子どもたち。
うちのお父さんの”つらい現実認識”、お母さんの”あくまで我が子にもお父さん にもやさしく接する姿”、そういうものがこの30分間で表現されていることに、 気がつきました。
前半部分の”こどもたち”の腕白ぶりだけを特にユーモラスに描く映画ではなかったことを 今回改めて認識させられました。
(蛇足の感想)
弁士(澤登翠)として第一人者であるこんな立派な人の弁士ぶりは、 時代劇の方がいっそう良く現れるかと思います。
無声映画それは”忘れられていく存在”かもしれないだけに”映画観賞サークル” の面々の今後とものフォローは大事なことと思います。

『息子の部屋』

春声@
『息子の部屋』 2001年 イタリア 99mins カラー
監督:ナンニ・モレッティー
出演:ラウラ・モランテ ジャスミン・トリンカ ジュゼッペ・サンフェリーチェ シルビオ・オルランド
2002/02/26 中洲大洋にて
去年のカンヌ・パルム・ドール受賞のイタリア映画『息子の部屋』を観ました。
感想が2分されているみたいと誰かが言ってましたが、私の感想は”良かった”。 なぜかって? 息子の死という大変大きな事件を契機にするある家庭の三人を描 いた映画ですが、なによりも、その語り口の"どぎつさの無さ"、"優しさ"に感心したからです。
こういう絶対的やりきれなさ、"神も見放した給うたか"みたいな出来事も、人間 一生のうちには存在するのであって、それを大げさに嘆いても、怨んでも、所詮、せんないこと。 そこらへんを私に対しては、充分納得させるような映画作りがしてあったと思います。
男親の悲嘆、絶望、無気力、仕事への挫折、そういった描写が延々と続きますの で反感を抱かれる向きもあるかもしれません。しかしラスト、あの一種晴れ晴れ しさまで感じさせてくれる画面にまで辿りつくのですから、いいじゃありませんか。 だからどうなの?それだけ?と言われたら、それこそ"それまで"です。
亡き息子のガールフレンドだった女の子が三人家族を訪問してくるのが後半の大 事な設定になっています。訪ねてきた彼女、なんとボーイフレンドと一緒。 ある種屈折した感情が双方に存在しつづけているだろう事が予想できなくはない が、この映画はそのあたりを余計に説明的描写をしない。
簡潔といえば簡潔、省略に過ぎるのではないかと感じる方もいるのでは。 日本人的感覚の大方は、"お母さんの心持さぞや複雑だろう!"と気をまわすこと もあるのではと思えます。
スキューバダイビングの事故の描写もあえてやらなかったと同様、この点におい てもこの映画の、これが意識的にとったテクニックだと思います。
フランス国境まで自動車で若い二人を送り届ける夫婦の"屈託の無さ"かに見える 様子の中にこそこの映画は主眼を置いてるのではないでしょうか。 国境での彼らの娘、つまり亡くなった息子の妹?姉?が "なんでこんな所まで、 きちゃったの?"と言ってむくれかけるシーンもありますが、それに答える父母 のふっきれたような笑いがすごくいいです。
亡くなった息子が恋人と一緒に"今旅立っていく"とでも私如きが拡張解釈しても 誰もなにも言わないでしょうし、そういう"跳んだ感覚"までも要求されるくらい "ものすごくとんでもない出来事"に見舞われた彼等3人でもまたあったわけです から。そうです。簡単に言えば支えあい、乗り越えた3人の映画です。 ああいう風に"ふっきれていく"ことこそ生きていく人間が表すべき"あかし"ではないでしょうか。
大仰な破綻の描写も無し、神の救済みたいな描写もありません。 老いも若きも、生者も心の中の"死者"も、ひとしく北伊の太陽のもと、明るく燦 と、"ともに生きていく"予感をもたらしてくれました。

『パズル』

春声@
『パズル』Nadie Conoce a Nadie 1999年 スペイン 108mins カラー
配給:ポニーキャニオン 配給協力:シネカノン 字幕:林完治
監督・脚本:マテオ・ヒル 音楽:アルハンドロ・アメナーバル
原作:ファン・ポニリャ
出演:エドゥアルド・ノリエガ ジョルディ・モリャ ナタリア・ベルベケ パス・ベガ
2002/02/26 KBC1レイトショーにて
現在、新作公開中のアメリカ映画『バニラ・スカイ』はトム・クルーズが製作・主演している。 トム・クルーズは、スペイン映画『オープン・ユア・アイズ』の監督をやった アルハンドロ・アメナーバルや主演者のエドゥアルド・ノリエガをいたく気にい ってしまってコンタクトの結果、『オープン・ユア・アイズ』のリメイク版を アメリカで早々と作ってしまったというわけ。冒頭シーンの撮影なんかそっくりなんですって。 前作からまだ4〜5年しか経っていないのに、えらくほれこんだものですね。
アルハンドロ・アメナーバル監督は『テシス・次に私が殺される』や『オープン・ユア・アイズ』 を作った際に脚本で『パズル』の監督マテオ・ヒルと共同でやっている。 スペインの映画人の人脈がクロスオーバーしていく状況がとても興味深い。 あの人はあの人のあの映画のなにをやったとか具合――。映画『パズル』の音楽 担当は『テシス・次に私が殺される』では監督のアルハンドロ・アメナーバル。 映画学校とかの状況もあるみたいでスタッフも俳優もこういう感じでクロスして いくし、当然のごとくグループもある。
『オープン・ユア・アイズ』と『バニラ・スカイ』の女優はたしか同じでペネロ ペ・クルス。2本の違う国籍ではあるが、同じネタの映画に両方出たということ。 『パズル』の主演の美男男優は『テシス・次に私が殺される』の主演で人気の出 たエドゥアルド・ノリエガ。この人、苦味走った表情がなかなかのもの。 若きアラン・ドロンほど甘くなくっていいです。
『パズル』は、サリン散布はあるわ、爆破テロはあるわ、パソコン画面での脅迫 やゲーム感覚の殺人集団が出てくるわという”ナウいといえばナウい”映画でした。 ちなみに"ナウい"というのは今や死語だと若い人から言われたことがあるけどまだ解かるデショ?
謎解きの要素もあって。『テシス・次に私が殺される』とよく似た構成やタッチは スタッフがクロスしているから当然か。
スペインおたくにとって最高は"セビリヤ"の町の俯瞰や街並みの実写がかなり沢 山みられること。4月末に行われる"聖週間"、セビリヤのマリヤ像のお祭り風景 で爆弾が仕掛けられるという具合のおはなしです。闘牛場も画面に出てくるし、ヒラルドの塔の俯瞰撮影も。 善玉はエドゥアルド・ノリエガが演ずる新聞のクロスワードパスルづくりを職業として いる青年。彼が悪魔集団と対決していくんです。結構面白かったですよ。
スペインは映画もやみつきになりますがレイトで1週間だけの上映はつらいです。

『今日から始まる』

春声@
『今日から始まる』 Ca Commence aujourd'hui 1999年 フランス
ベルトラン・タヴェルニエ監督 color cinema-scope 118mins
出演:フィリップ・トレトン マリア・ピタレシ ナディア・カッチ
シネサロン・パヴェリアにて2002年2月16日観賞。
(以下、チラシを引用しながら−−)
牧歌的な名作『田舎の日曜日』84、にてキネマ旬報ベストテンにも選ばれたり 天才ジャズプレイヤー・バッド・パウエル、レスター・ヤング等の人物像に着想を 得た『ラウンド・ミッドナイト』86などで知られる、フランスの監督ベルトラン・タヴェ ルニエ監督が、子どもたちの人権の尊さと、不公正と闘う人々の勇気を描いた感動作。 フランス北部のかつて栄えた町エルナン。今は炭坑の閉鎖による失業者のあふ れる貧しい町。この町で幼稚園の園長をつとめ、情熱を注ぐ男が主人公。 ある子どもとその家庭環境を知るに至って彼は、”貧困”から子どもたちを守るべく行動を始めた。 弱者切り捨ての社会を告発し、教育、福祉、家族の真のあり方まで問いかける。
(感想)
映画の中で、よみあげられる詩が2〜3あります。 主人公が作った彼の言葉そのものなのか、今ひとつ掴んでいませんが−− ”祖先からうけつぎ、ひとつずつ積み上げていく小石の山−−−” その詩に上のような表現があったのです。数世代にわたる人間の絆を表現した ものでしょう。これは重要です。制度がどうあろうと絆は絆。 そこには人間として、犯すべからざるものがあるはずです。
”小さな勝利があるからこそ人間は前進できる”とは、監督が語った言葉の一つ。 大きな大事なものを失なった彼、それを繰り返さないために、彼がとる毅然たる 態度を映画が語る場面があります。予想された彼への抵抗、反撃。 誹謗・暴力に耐える彼の一見上、無抵抗の姿勢。
しかし耐えることによる得られる小さな勝利、そう”今日から始まった”のでしょう、 彼の闘いは。悲壮な感じはしなくって、どこか余裕もある彼の身の処しかたをみていると、 きっと彼だったら、そして彼の二度目のあの奥さんと、そして二人の間にひきとら れている坊やが彼をバックアップしていく限り、彼はやっていくのではないでし ょうか。たとえ世界的子どもの権利確保の絶対的成功にはつながらずとも、小さ いところで、小さな小石として。
主人公の男は彼の坊やからは”ほんとうの父親じゃない”ということで、冷たい 態度しか彼自身の家庭では受けていない状況があるんですけど、映画が進展 していくにつれ、彼に対する坊やの表情、行動がやわらいでいくのが見て取れ ます。もし彼があの微笑に支えられていくのであれば、今日からでも、明日 から始めても見事に”世界への絆”がしっかりと保持されていくような気に、こちらもなれた映画でした。
フランスの田舎町の幼稚園の子どもたちの可愛らしいこと、しかしその一人一人 に当然存在している冷酷な社会の様相。 それを映画という方法で、映画作家の独自世界で切り取ってみせる映画芸術。 ”現実ではないだろう”、”記録ではないだろう”、”きれいごとではないか”等の 批判がもしあるとしても、この”映画という媒体”を観賞する意味がないことに は絶対あり得ないと思います。観賞していい気分になっていればそれでいいとも 思ってはいないのですが−−。

『イ―スト/ウエスト 遥かなる祖国』

羊の羽
ニーチェ「ツァラトゥストラ」の中にこういう文章がある。
「女性の心情は表面である。浅い湖沼の波たちの騒ぐ皮膚である。 だが男性の心情は深い。かれの奔流は地下の洞窟の中で、音をたててなる。 女性は男性の力をおぼろに感じる。しかし理解することはできない――。」
『イ―スト/ウエスト 遥かなる祖国』は、フランスから東西冷戦時代のロシア に渡った女性が、その厳しい体制の中で祖国フランスを思いながら、自由を求め て生きぬいたことを描いている。
女性は祖国フランスを求めて、(あるいは自由を求めて、)まさに湖沼の波たち が騒ぐようにありとあらゆる方向から積極的にアプローチしていく。 その一方で男性は、表面ではロシア政府に従い、しかしゆっくり長い年月をかけ て確実に、妻と子供をフランスに、自由の下に送り届けようとする。 奔流が地下の洞窟で音をたててなるかのように。
この男性・女性のどちらかが、自由に向けての正しいアプローチをしたというこ とではないように思える。結局はどちらとも正しかったのだ。女性は積極的に自 由を求めたが故に目をつけられることとなるが、結局それは最後に夫が処刑され ずにすむ理由となる。そして男性は、妻に知られることもなく、着々と確実に妻 と息子を逃がす道を築いていくのである。単に一方向からの働きかけによるもの ではなく、女性の、そして男性の、この二方向からによる働きかけによって一家 はまさに自由を享受しえたのではないだろうか。
女性は男性の行為に於いて、理解できない点がある。男性が女性に対しても同様 である。しかし、そのお互いが理解できない点にこそ、お互いにとっての開かれ た道(意味)があるのではないかと考えさせられた映画であった。

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